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ジャカルタ通信


私の送別会          (2003-10-04)

2年間の任務期間も、過ぎてしまうとアット言う間でした。
帰国間際に納入されてきた、新しい機器の搭載工事を行い、すぐフイールドテストをすると言う忙しい日々を送りながら、帰国の荷造りは、まあ1週間もあれば出来るか、と考えていました。
最後の報告書を、一生懸命に作成している頃から、「斎藤さん今日空いていますか?」、と突然電話がかかってきます。
どういう訳か、「今度の何曜日あけて置いて下さい」という言い方ではないのです。
答えるほうも当然「今日は予定があってダメなんだ」、というと「じゃまた」、と切れてしまいます。
今日こそは予定がないから、部屋の整理をしようと思っていると、電話が来ます。
「斎藤さん今日空いていますか?」、ウソはつけない性質なので「今日は空いてます」、というと、何処そこへ来て下さいと、ありがたいことに私の送別会をしてくれるのです。

地方都市のJICA専門家の方まで、夕食を準備してまさにビールの栓を抜かんとする時に、電話で「たまたまジャカルタに来ています。確か斎藤さんは今月いっぱいですよね。今日空いてませんか?」、と言ってきてくれます。
あとは言わずと知れた午前様です。
そんなこんなで、帰国準備で一番予定が狂ったのが、準備に使える日が取れなかったことです。
最後は、部屋の掃除に来てくれている青年(と言ってもお父さんですけど)に、はいていた靴や使っていたカバンまで大量に「全部あげるから処分していいよ」と渡してきました。

最初に送別会をするからと言ってきてくれたHAMは、私がジャカルタに赴任して初めて会ったHAMのYB0GJSジェラニーGjellaniさん
です。
例により、SOGOの3Fにある「たいちゃんレストラン」で会いました。
友達になったYB0のHAM達のコールサインが刻まれた素敵な盾を記念にくれました。
これは、少々重くて困りましたが、せっかくの記念ですので大事に持ってきました。


(YB0GJSジェラニーさんと「たいちゃんレストラン」で)


(ジェラニーさんから記念に貰った盾 ジャカルタのHAM達のコールサインが刻まれている)

そうこうしているうちに、(当時)ジャカルタにいる日本人HAMの小泉さんJE1ATW/JQ6NVE/K1UPから、YB0CRTジョコーDjokoさんが斎藤さんの送別会をやると言っているけど、と連絡して来ました。



(ジョコーさん主催の送別会 斎藤の左後ろ紺のシャツがYB0CRT Djokoさん、2列目左端は南極にも居たことがある横野さん、Djokoさんの左が小泉さん)

この日は、私を入れてジャカルタの日本人HAM3人が集まりました。
奥さんを連れて参加している方も居ます。もちろん我々からはお金は絶対に取りません。もてなしを大切にする文化でしょうか。

日本で、日本語教師の勉強を2年間した結果を生かせたらと、ジャカルタに来てから、ご自宅で現地の日本語を学ぶ大学生に毎日曜日「話しませんか」、と言うボランテイア教室を開いている久美子プルカダンさんの所で、先生の1人としてお手伝いしていましたので、ここでも私の送別会をしてくれると言うことになりました。
食べ物や料理は、先生役の日本人の奥様方が用意してくれたのですが、当日行きましたら、学生達もいろいろなものを持ってきて、私にプレゼントしてくれるではありませんか。
嬉しいのですが、貰うものいちいち「これは重いなあ?」とか、「これはかさばるなあ?」とか、内心思いながらニコニコしながら受け取っていました。
本当にこの国の人は、義理堅いと言うか、贈り物が好きと言うか、感心します。


(「話しませんか」の送別会 学生達の笑顔がとてもすばらしい)

帰国の日が近づくにつれて、思わぬ人から贈り物を貰うことが増えてきました。
行きつけのブロックMのカラオケ店からは、かさばるお人形を貰ってしまいましたし、女の子からは、やはりかなりかさばるお人形とか色々貰ってしまいました。
その上、帰る日には送って行くからとまで言ってくれるのですから、平にご容赦を!と説得が大変でした。
あまりお付き合いがなかった人まで、突然オフイスに尋ねて来て、贈り物をくれて、「今度何時戻ってくるのか?」と聞いてくれるのです。

3月いっぱいで任務が終わると言うその3月に、大きな人事異動がありました。
私の所属していた課は課長さんも、直属上司の美人の係長さんも、もう1人のやはり美人の係長さんも、皆異動になりました。
局レベルの大きな異動でしたので、3月も押し迫った28日に、大きなホテルの大ホールを借り切って、人事異動の歓送迎会がありました。
私も出席するようにと言われていたので、その前にあった集まりを早めに切り上げて駆けつけました。
プロの歌手とキイボード奏者を呼んであって、一緒に歌ったり踊ったり、皆なかなかの芸達者です。
そのうち、私も女性職員から「一緒に歌おう!」、とステージに引っ張り出されて、五輪真弓の「こころの友」を歌わされました。


(「こころの友」を熱唱)


(女性達のテーブルで)


(このテーブルは局長、課長クラスの人たちのテーブルです。私もここに席を戴きました)

歓送迎会が進んで終りに近くなったときに、突然私もステージに上げられ、局長からご苦労さんでしたと言うメッセージと熱い握手を戴き、更に大きな大きな包みを貰いました。
このときは内心、決定打を受けたような感じで、「こんな重くて大きいものよしてよー」と叫んでいたのですが、その場で開けて下さいというので開いたのが次の絵でした。


(局長から貰った私を書いた絵 立派な額に入っています。皆「ん!似てる似てる」と喜んでいました)

皆の握手で送られて、なんだかすっかり感傷的になり、こんなに皆が私のことを考えてくれていたのなら、もう少しやさしく指導すればよかったかな?などと内心反省したりもしました。何しろ、時に「Siapa responsible!」(誰が責任持っているんだ!)と、インドネシア語と英語のちゃんぽんで、大きな声を出したりしたものですから。

そんなこんなの2年間でした。
過ぎてしまって、インドネシアにはまる日本人は結構多いと言う話がなんとなくわかる気がしました。
 

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