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JA8VE局のこれまで


     (大和アマチュア無線クラブ 創立40周年記念寄稿)

JA8VE局のこれまで

 --いまだに「昔の名前で出ています〜♪」 大和アマチュア無線クラブにお世話になり20数年、これまでの私のハムライフを要約--  


 
      200610月 JA8VE 斎藤邦夫

○小学校時代

 1940(S15)年3月北海道小樽市に生まれ、小学校時代は鉱石ラジオを作っていました。
まだ物が無い時代でしたが、自分用の半田ごてを持っていたのを記憶しています。
「鉱石」は方鉛鉱のかけらが入ったロケット型、コイルはかの有名なスパイダーコイルでした。
小学校に大きなワイヤーアンテナが張ってあり持って行って繋ぐとラジオ放送が微かに聞こえました。
この辺がラジオ少年の始まりだった様です。

○中学校時代  

中学校時代は、家にあったナス管を使ったラジオ(戦時中から押し入れに仕舞っておいて父は必要なときに聞いていたもの)を払い下げてもらいました。
当然、大切に且つ徹底的にバラさせてもらいました。
227」と言う名前の真空管が使ってあったのを覚えています。
また、兄が復員して来た時に持ってきた、「並四ラジオ」も私の自由にして良いと言うことになり、これらがお小遣いも店も無い時代の私の貴重な宝物であり財産でした。
並四ラジオには、「
57」「56」「12F」と言った真空管が使われていました。

 これらのラジオの部品を使って最初に作った真空管式ラジオは単球式で短波が聞ける物でした。
コイルは適当に巻き、周波数など、どこがどうなっているか全くわかりません。
電灯線アンテナを使い、時にビリッと感電しながら夜な夜な慎重にバリコンを回すのです。
この自作の短波受信機で最初に聞いた信号は、ソ連のジャミングでした。今では聞くことが出来ない信号です。

 そのうち既知の放送局から周波数を推定しコイルを巻き直したり、海外の短波放送の日本語放送を聞きレポートを送るいわゆるSWLをやっていました。
理屈も何もわからないのですが、聞こえるはずの信号が日によって聞こえなかったり、とても良く聞こえたり、とにかく不思議さと面白さに夢中になっていました。
BBC放送からベリカードを貰ったのもこの頃ですが、残念ながら残っていません。

 今回押し入れからひっぱりだした古いQSLカードの束の中に中波放送局のベリカードを発見、当時をついこのあいだのように思い出させてくれました。

HBC北海道放送局のベリカードと東京の文化放送のベリカード

○高校時代

 学期の試験が終わると受信機造りに精を出していました。道具がなく、アルミシャシーも手に入らず、鉄のシャシーを苦労して加工していました。
3年生になると大学受験が先決だろうと親の小言がうるさくなり、あまりもの造りが出来なくなり、小樽クラブの定例会に出席したり、
OM方の家へ遊びに行ったり、もっぱらハムになりたい願望をため込んだ時代でした。

 OMさんから戴いたGT管のメタルチューブを大切になで回してはハイGm管を使うと受信機の感度が違う!と言うのを信じていました。
受験勉強中は、もっぱら深夜放送のリクエストアワーを聞き、当時ヒットした映画音楽や、時には同級生(女子)がリクエストした曲を聞き、アッまたあいつリクエストしたな!てな調子でした。
しいて言えばこの時代は
BCL(今は死語?Broadcasting Listener)でした。

○大学時代

 S334月から札幌の北海道大学へ南小樽駅から汽車で通う生活が始まり、札幌市内に1軒あったジャンク屋へ足繁く通っていました。
当時、電話級・電信級と言うクラスが出来たばかりで、早速受験の手続きをし、
S34年札幌の中島電波学校(今は中島公園にはありません)で試験を受けました。

 この時戴いた電話級の従事者免許証(S3469日付)は第161号で、続けて受けた電信級の従免(S35512日付)は第21号でした。
翌年の
2級(S361226日付)は第28号ですので、この頃アマチュア無線従事者試験を受ける人は多くはなかったと言うことでしょうか。

初めての無線従事者国家試験受験票と2級受験後の予備試験合格通知

始めて貰った電話級アマチュア無線技士無線従事者免許証 それにしても写真は若いですねぇ〜

JA8VE局開局当時のシャック

@中央の大きなダイアルが2つ付いているのが、高1中2の受信機、バリコンは3連スプレッド付き。当然、全部真空管式です。でも受信機はMT管を使っていました。コイルパックが高価でした。

A上段右:807シングルハイシング変調(AM)の送信機。

B上段中:黒いのがスーパーへテロダイン式の6m用受信機、その上にあるのが6AQ5のファイナルダブラー50MHz送信機。送信周波数は水晶1個で固定。

Cその左にあるのは自作6mトランシーバー、RFはサブミニチュア管、その他はTr.、電池式。

Dアンテナは、7MHz用にツエップ、竹箸をパラフィンで煮てセパレーターにしました。50MHzは木製2エレ八木でした。

E右の壁にあるのがHFのマッチング回路。電流計は豆球、鰐口クリップでタップをつまんでいました。

F卓上右側のオッシロスコープは友人からの借り物。

50MHzQSOの感激

 50MHzは、ローカル局とは今晩何時から出るから聞いてくださいねとQSO出来るのですが、機器が正常に動いている確認の他は面白さがありません。来る日も来る日もノイズばかりです。
ところがある日、いつもの通り受信機に火を入れると、なんとバンド中沢山の局が聞こえています。それも弱い信号ではなくローカル局よりも遙かに強いのです。夢中で固定1波でCQを出すと、JA7からJA6まで次々と呼んで来てくれます。しかもレポートはお互い59/59です。
すっかり
6mEスポに魅せられた瞬間でした。
考えてみれば
6AQ5のファイナルダブラーなどと言うとんでもない送信機で、多分50MHzの出力は2-3Wだったのではないでしょうか。これで沢山の局に呼ばれる快感?、にしびれてしまいました。

案外この時の経験が、後年のExpedition癖に繋がっているのかも知れません。

50MHzQSOで戴いたQSLカードや九州福岡からのSWLリポート。
各局の受信機・送信機の欄を見ると当時が偲ばれて面白いです。
写真左下の
JA3BVJ局は2E26
の送信機に4エレ八木って書いてありますから、当時の私の設備からすれば雲泥の差です。

天狗山移動運用 北海道フィールドディと言うのが当時あったようです。OMさん方の車や設備で小樽が一望できる天狗山(537m)山頂で運用した思い出があります。

 この時自作のBattery式のハンディ機で山頂から岩見沢の局と交信出来大感激。
このトランシーバーは
RFはサブミニチュア管、変調部はトランジスタを使いハンドセットは600型電話機の送受話器で、この頃出ていたモトローラーのトランシーバーと似ている?つもりでひとり悦に入っていました。

○お世話になったOMさん方

当時小樽にはJA8BW佐藤OMJA8DH加藤OM、JA8HR山崎OM、JA8JC田中OM、JA8ZC伊藤OMなどなど沢山のOMさん方がおられ、小樽アマチュア無線クラブは総勢60数名の(今思えば大)クラブでした。
私の開局時の落成検査は、
JA8VAからVIまでコールサインの連続した9局が1カ所に集まり、札幌の電監から係官が2名来られて、ヘテロダイン周波計で周波数を測り、「VFOのこの範囲で運用してください」と印を付けてくれたのをおぼえています。
当然これら合同検査のアレンジはすべて
OMさん方の御努力によるものでした。

お世話になったOMさん方のQSLカード 左のJA8BWさんは現在は札幌にお住まいで、あとの写真にカードがあるJA8AAC内山氏と近年訪ねた時は「生きている内にまた会えるとは思わなかった!」と歓待してくれました。

ハムの友人達 今はQRVしているのでしょうか?下のJA8AACとは中学校時代からの無線仲間です。

JA8VE局のQSLカード 最初は貧しかったのでガリ版刷りでした。下はその後注文して作ったカード。

 

○会社人間時代

S37(1962)年4月に上京して武蔵小杉にあるNECに入社しました。弱冠22才でした。
寮は川崎市野川字西耕地
3136番地にあり、毎日バスで武蔵小杉駅まで出て、そこから一駅分ですが向河原駅にある会社まで歩いて通っていました。
この頃の寮は6畳一間に2人で、窓側に机を並べると寝るときは部屋をすべて片付けないとならない状況でしたが、ここでもまだ無線機作りに情熱を持っていたようです。

入社当時の寮の机の上 受信機は小樽から持ってきていたようです。でかいトランスは送信機を作ろうとしていたのでしょうか。

 この野川寮時代のQSLカードが何枚か残っていますので、写真は残っていませんが6m用の持って歩ける(但しAC電源方式、2E26ファイナルの)送受信機を完成させていました。

○休眠時代 を経て 大和市へ  

入社後すぐに会社ではむちゃくちゃに忙しい時代に突入、1ヶ月の残業時間が200時間を超えるのが普通と言う生活になり、本人の意識としては、アマチュア無線というものを忘れていました。
私生活では、寮を出て単身用の公団住宅に入居、更に結婚で(中央線)豊田駅前の
1DKと言う公団へ入居、長女が出来てまた公団へ応募、百合ヶ丘の2Kへ転居しました。
この間ずーっとめちゃ忙しい会社人間で、無線機の設計開発を本業としているせいか、自分用の無線機は全て測定器から自分で作るんだと、ひどいこだわり派でした。  
下の子が出来て長女が自分の部屋が欲しいと言い出したので、大和市鶴間へ転居しました。これが大和
ARCの皆様にお世話になる発端です。

無線とは関係ありませんが 昭和40年当時の時代背景 当時転居の時に米穀通帳を市の出張所に持って行っていた様です。
自分では全くおぼえていませんが、この通帳は芦花公園(世田谷区烏山町)から日野市多摩平へ転居したときのもの)

○窓際族時代から大和ARCの皆さんとの出会いへ

大和市へ転居してきたのはS53(1978)年830日でした。
まだ仕事は忙しかったですが会社人生も終わりに近くなり、異動も頻繁になり、いわゆる窓際族になって来ました。
転居してもしばらくは大和
ARCの皆さんとの深いおつきあいはありませんでした。

大和市鶴間でのシャック 私の住まいは神奈川県住宅供給公社が建てた5階建ての集合(分譲)住宅で

無線をやるために5階に入居しました。エレベーターがないので階段は大変。机の上に無線機があるだけの超シンプなシャックです。

アパマンハムで、しかもコールサインは今もってJA8VE/1ですので出力50Wの細々とした運用です。南側のベランダからアルミパイプでロータリDP(142128MHz)を回していました。北側には3.8/7MHzから使える多バンドのVertical Antをあげていました。このVertical Antの接地側はアルミ線を建物の屋上の隅を這わせたFBなもので電波は良く飛んでいました。現在は撤去して何もありません。

○硫黄島へ

1990(H2)年7月に、職場の上司が参加することになっていた硫黄島への慰霊団の一行に、急遽私が代わって参加すると言う機会がありました。
入間基地から
C-130で行くと言うので、ならば無線機くらいは積めるだろうと乗り込みました。硫黄島の慰霊碑前での式典にも参加、運用時間は短かったのですが /JD1で運用しました。これが私の初めてのJA以外のカントリーでの運用です。

JA8VE/JD1QSLカード表 硫黄島すり鉢山からの取った写真をそのまま使用しました。

JA8VE/JD1QSLカード裏 裏面はラベル用紙にプリントしたものを貼り付けた手作り。

○大和ARCの皆さんとのExpedition  

大和クラブに入れて戴いてもしばらくは皆さんの名前と顔とコールサインが一致しませんでした。
会社の勤続
30年で特別休暇がもらえることになり、長女を連れて初めての海外旅行へ出かけました。
当初アラスカへオーロラを見に行こうとしたのですが、無線もやろうと言う発想が出てきて、零下
40℃では同軸ケーブルも折れてしまうと言うので、一転暑い国ニューカレドニアへ行くことにしました。軽い気持ちで運用したのですが、コンディションも良い時で、食事をする暇もない位呼ばれてしまいました。
場所として首都ヌメアに
3泊、エスカペード島に2泊、イルデパン(島)1日と3カ所で運用してきました。

FK/JA8VE ニューカレドニアでの運用(1992(H4)年12月) イルデパン(松の島の意)ビーチでの運用。新婚旅行でそこへ行ったことがあると言う日本の局から「いいですね」と言われた。その局は「新婚旅行ではさすが運用は出来ませんでした」とのこと

ヌメアの街の写真を使ったQSLカード

 このExpedition の話を大和クラブのミーティングで話したのがきっかけで、話が急に進みフイジー経由ソロモン諸島ガダルカナル島へ行くことになりました。
これが私の知る大和クラブ
Expeditionの第1回目だったと思います。
Fiji経由ホニアラへ行きましたので、FijiでのライセンスとH44ソロモンでのライセンスを貰いました。

H44/JA8VEソロモン諸島ガダルカナルのQSLカード1(1993(H5)年11月)) 

3D2AA アイセア・アイサケ氏の家族と フィジーのハムのアイセア氏とはその後、色々な機会にお世話になることになった。食事をしようと言ったら彼の車に一族皆乗ってやってきた。

 

○大和クラブExp時代 今も続いていますが・・・

ずいぶん沢山の場所へ出かけました。
一つ一つ思い出があります。ここでは
QSLカードを並べ23のエピソードを付記しておきます。

3D2KZQSLカード(その1) 1995(H7)年1月のExpedition

3D2KZ RotumaQSLカード アイセア氏の親戚のお宅に泊まって運用。(1995(H7)年11月)

3D2KZQSLカード(その2) マロロライライMalolo lailai、タベウニTaveuni島用。(1998(H10)年4月)

3D2CC Fred氏と フィジー本島のすぐそばにあるマロロライライ(島)で運用した時、この島の主3D2CC Fred氏の自宅を訪ねました。
年中全裸で暮らしていると言う変人?(我々ハムも変人のうちに入りますが、この方は桁がちがう!)です。
とにかく面白い方でお腹がよじれるくらいに面白かった出会いでした。

KH6ハワイ及びKH8アメンリカン・サモアExpedition (1996(H8)年10月)

KH6KH8QSLカード 写真はKH8オフ島

 この遠征は大勢で行くことになり、私も行ったことがなかったハワイにも泊まり、色々あって?楽しい旅でした。
何があったって?

1. ハワイの通関でカップ麺を没収された

2. アメリカンサモア本島から目的地のオフ島への飛行機に予約が入って居なかった!

3. 本島ではKS6DVデイブさんのお宅へ押しかけて冷蔵庫のビールを皆呑んでしまった。

4. かの有名なVK9NSスミスさんと会うことが出来た。

5. 運用地のオフ島は滑走路脇に泊まり景色よし静かな島でした。

6. 但し、コンディションは最悪、夜間はまるで洗面器をかぶせられたように何も聞こえないと言う驚き!

アメリカン・サモア本島パンゴパンゴで、青いシャツがVK9NSスミスさん、その右がAH8Eミッシェル、松井さんと福里さんの間がKS6DVデイブ

○ツバルExpedition (1999(H11)年5月)

ツバルでの運用はとても印象深いものがありました。
ヨーロッパからの猛パイルを数時間あびてとても疲れましたが、充実した運用でした。
この頃はまだ全員
100W運用でした。
夜は星がとても明るく海岸を星明かりで歩くことが出来、内海に星が映るのを始めてみましたし、天の川に輝く南十字星を心ゆくまで眺めました。

T22VEQSLカード 夕日が美しく夜には水平線へ星が沈んで行きます。

 ハイダウエイのご夫妻と お世話になったご夫妻は今頃どうされているでしょう。機会があったらまた行ってみたいところです。

○ベトナムExpedition

 私がべトナム語を1年間勉強し(てみ)たことから、先生だったベトナム人の方々のご縁でベトナム行きを計画しました。
199711月に無線とは関係なく、ハノイ・フエ・ホーチミン市を訪問したときに、ハノイのDGPT周波数局を訪問、ライセンス取得の手順を聞いてきました。

3W6KSXV5VEQSLカード

写真上は、3W6KS Phu Quoc Is.QSLカード。
ベトナムの南端の島
AS-128JF1OCQ三宅さんと一緒に行きました。
この島は漢字では富国島と書きます。島では雨や強風に遭いましたが、飛行機は予定通り飛んでホーチミン市のホテルからも運用しました(
1999(H11)年8月)
写真下は、
XV5VEハロン湾Cat Ba Is.QSLカード。
大和
ARCの皆さんとベトナムの桂林と言われるハロン湾にあるカットバ(白砂の意)島へ行きました。
ベトナムは食べ物が美味しくハノイでも運用と食事を満喫しました(
2000(H12)年4月〜5月)

○竹富島への国内移動運用 (2000(H12)年4月)

以前横浜市に住んでおられて、その後出身地の竹富島(石垣島のすぐ隣の島)へ戻られたJL6LIH上間OMにお会いするため無線機も持って行きました。独特の景色・美しい蝶・村民皆家族の様な印象深い島でした。

竹富島移動時のQSLカード 竹富島はとても美しい島でした。

竹富島移動時のQSLカード裏面

○タヒチ ボラボラ島へのExpedition

 長女はニューカレドニアへ連れてゆきましたので、次女をタヒチへ連れて行くことにしました。
観光地にもなっているボラボラ(
Atoll)にFO5IW Stanさんが島を所有しており、彼のコテージにお世話になりました。とてもとても美しい島でした。(2001(H13)年1月)

FO0KUNQSLカード Atollの真ん中に島があり周辺の珊瑚礁の小島の一つがStan氏の島

Stan氏と Stan氏は実は私と同じ歳で還暦を迎えたばかりでしたので日本酒で乾杯しました。奥様はとても若い方で写真のお子さんは自分の娘(当時2才)で「お前もがんばれ!」と言われました。

Mai Moana Is.Stan氏のコテージ ここから各バンドDP100W運用しました。

 

VK9XE クリスマス島Expedition (2002(H14)年12月 と 2003(H15)年4月)

 20014月からJICAシニア海外ボランテイアとしてインドネシアのJakartaに赴任しました。
1
年目はまじめに休暇も取らずに居ましたが、イスラムの断食月からクリスマス、年明け更に旧正月まで、勤務先もほとんど人が居なくなることがわかり、2年目は休暇を貰い一人でJakartaから(ジェット機で)たった1Hの所にあるオーストラリア領クリスマス島へ行ってきました。

VK9XVQSLカード この島は年に一度大潮の日に陸に住む赤い蟹 が産卵の為海岸へ降りてゆくので有名です。12月に行きましたのでこの蟹が沢山いました。

 翌年4月〜5月の連休に日本から松井OMと中山OMにジャカルタへ来ていただき、一緒にクリスマス島へ行きました。

 

VK9CV ココス島Expedition (2003(H15)年11月〜12月)

 VK9Xのクリスマス島のすぐそばにもう一つVK9C Cocos Keeking Is.があります。
この島も行ってみたくなりインドネシアに居る間にと思い
、20039月に斎藤がまず下見に行き、同年11月〜12月に中山OMと一緒にオーストラリアのパース経由でココス島へ行き約1週間運用してきました。
ここでは中山
OMが指を切る怪我をして島の診療所の女医さんに縫って戴く(帰るまでに完治)ハプニングがありました。

VK9CVQSLカード ココス島は静かで綺麗な島でした。

○ジャカルタ時代(2001(H13)年4月〜2003(H15)年4月)

 JICAシニア海外ボランテイアに初めて応募して、インドネシアのジャカルタに2年間住みました。
日本との相互運用協定が結ばれていないのでライセンスはもらえませんでしたが、沢山のハムの友達ができ思い出が沢山あります。

この証明書はコンテストにYB0ZBCのゲストOPとしてORARIが発行してくれたもの。

コンテスト用QSLカード オペレーターとして私とJA1ATWJQ6NVE)小泉氏のコールも印刷されています。

YC0EEEと どこで手に入れたか日本のCQ誌を持っていました。

私の送別会 インドネシアのハム達にはお金持ちが多い様です。設備も立派で、つきあいも上手です。
赴任時には歓迎会をしてくれましたが、帰国時にも送別会を企画してくれました。
自分のコールサインはもらえなくても沢山の友人と親切をもらいました。

 ジヤカルタでのハムとの出会いでは、何と言っても7N4TJR松田OMが私の住むアパートのすぐ近くに仕事で長く滞在されたことです。
週末ともなると、カラオケスナックへインドネシア語の勉強のため?
2人で出かけていました。
東京で言えば歌舞伎町の様なブロック
Mのすぐ近くに居たのですから・・・。

 ジャカルタの動物園でオウムとQSO中の松田OM

 

○マジュロ(マーシャル)時代(2004(H16)年4月〜2006(H18)年4月)

 2度目のJICAシニア海外ボランティアとして、マーシャル諸島共和国の首都マジュロの運輸通信省へ2年間勤務しました。
仕事は電気通信行政と言う厳めしいものですが、ライセンス発行部門でもあり、アマチュア無線用コールサインも
V73VEを発行して貰い自宅で運用することが出来ました。
首都といえども何もない
Atollで無線でのQSOのおかげで2年間を退屈せずに過ごすことが出来ました。

V73VEQSLカード表面

V73VEQSLカード裏面

 郵便事情が良くないことから、V73VEQSLマネジャは三宅OMが買って出てくれました。
全てにおんぶにだっことはこのことを言うのでしょう。
上の
QSLカードの作成も発行も、今だにやって戴いております。

住居とアンテナ 家は海から20m、海抜ほぼゼロ、周囲が広くFBでした。アンテナは7Mのトラップ入り3.8MHz DPを椰子の木を使い張り、14/21/283エレトライバンダーを回していました。アンテナマストの一番上に付いているのは6m用八木、タワーは前任者が残した木製トラス柱にマストも木製でした。

V73VEのシャック 電源は115V、無線機はFT-840+リニアAL-811(アメリトロン)で運用してました。中央上段はFT-897D(6m用)。JAとは約4000KmHFではほぼ安定にQSO出来ました。ロングパスでEUopenした時はサービスに努めました。

○ポンペイ(ミクロネシア)Expedition (2005(H17)年11月)

 私がマーシャルに居る間に隣の国、ミクロネシア連邦のポンペイへ行こうと言う計画が持ち上がり、200511月にJA1JQY松井OMJA1KJW中山OMがまずマジュロへ来てくれて、マジュロから3人でアイランドホッパーの3つ目 Phonpeiへ行きました。

V63VEQSLカード デザインも全てJF1OCQ三宅OMの制作

ポンペイはAtollではなく島で、森があり川や滝があって鳥達も沢山いて植生が豊かな所でした。
何と言っても(マジュロと違って)ホテルで豪華な日本食が食べられます。

ポンペイのホテルレストランで豪華な日本食にご満悦の松井OM

ナンマードール遺跡 一種の巨石文化遺跡が残っていて、観光にも退屈しない所でした。

 マーシャルはもういいけど、ポンペイへは又行きたーい!

○ジャルート環礁ジャボール島(Jaruit Jabor)への移動運用

 マーシャルでの任期も終わりに近くなった20061月に、Jaruit環礁へ行ってきました。
この環礁のジャボール島には、昔日本の南洋庁ヤルート支庁がありました。
この移動の目的は旧海軍の飛行艇の基地だったイミチ島を見てくることでした。

スパイダービーム 中山OM製作のこのAntをマジュロから運び一人で組立、運用しました。7MHzDPはこの支柱に滑車でセンターの給電部を上げました。とても風の強い島でした。

イミチ島の12.7cm 2連装高角砲台跡 イミチ島には今も建物跡のコンクリートが沢山残って居ました。

イミチ島の戦跡 海岸にはバリケードに用いた航空機の残骸が沢山残っていて息をのみます。

 

私の宝物=他人のガラクタ 紹介

5円で買ったエーコン管

 無線を忘れて仕事に追われていた時代、出張で行ったロンドン市内でジャンク屋らしき店が目にとまりました。
エーコン管が沢山あって、昔超再生で
6mを聞いていた頃を思い出し一つ買おうとして財布を開けたら中に日本円の5円玉が入っていました。
すると店の主は値段を言う代わりに、これが欲しいと言います。
いいよ!と言うと「じゃこれもってけ」と言うわけで、思い出のあるエーコン管になっています。

未練がましくとってある真空管

 写真下側左は、定電圧放電管又の名をスタビライザー(スタビロと言っていたように思います)で、VFOの電源にはこれを入れないとダメなもんだとされていました。
紫色の放電がとても美しく、うんともすんとも言わない半導体は全く面白くありません。その隣は
6AQ512AT76AU66AK5です。6AQ5は開局当時私の50M送信機の終段でした。

 写真上側の箱、TENは神戸工業と言う会社の商標名でしたが今はありません。ヒーターの赤いぬくもりが何とも言えない郷愁をそそる、と言うのが年寄の繰り言なのです。(笑)

教育用にもならない昔の部品

 これは「○○と言うもの」と若い方々に説明しても面白くもないし、何の役にもたちません。部品一つ一つ入手に苦労した時代を知る人(Old Men)だけがフムフムと勝手に懐かしがればいいのだと思います。

自作したもの

ディップメーター

 真空管式の受信機や送信機を作るにはDip Meterが一つあれば何とか作れたものです。
その名残を引きずってか、やっぱり欲しくなり作りました。
正式の名前は
Grid Dip Meterで真空管のグリッド電流のdipをメーターで検知したことに由来しています。
トランジスター式の小型のものが売り出されていましたがいまいち
dipが弱く面白くないので、私は真空管式にこだわり、小さなセラミック管(名前はわすれた、東芝製でした)を使い全部手造りでつくりました。最高周波数は220MHzまで使えます。

 しかし最近アンテナの同調を見るのにインピーダンスアナライザーが安く購入できる様になり、もはやこんな測定器は出番が無くなりました。既に「私の宝物=他人のガラクタ」の分類に入れるべきかも知れません。

500Wダミーロード

 Expedition500Wリニアを持ってゆくことが多くなり、自宅でテストするのにダミーロードが欲しくなり作りました。
抵抗体は秋葉原のラジオデパートに売っていたのを買ってきました。入れてあるシリコンオイルはローカル局から戴いた物をつかってあります。
VSWRも良く、安く出来たと自分では満足しています。でも、頻繁に使う物ではありません。

<了>

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