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ベトナム 富国島 運用記 1999年 8月


 1999年の初めに、JA8VE斉藤OMから、ベトナム領富国島へのIOTAペディションの話をうかがいました。氏の、いつも綿密に計画されたなペディションは、氏自身がそのペディションを楽しんでおられる所が素晴らしいのです。
そんな氏と出かけてみたい、と常々思っておりました私は、その場でご一緒する事を約したのでした。

5月の上旬に、在日ベトナム大使館でVISAを受け取り、中旬に免許申請書を郵送致しました。全くの独力での免許申請のため、取得までの手間や時間が不明でしたが、それでも1ケ月あれば何とかなるとたかをくくっておりました。ところが、7月も中旬になっても当局からは何の音沙汰もなく、出発の日まで2週間となった7月15日にやっとFAXでライセンス取得が知らされました。やれやれと思いきや、内容を見ると許可された周波数が14/21MHzだけなのでビックリ。これでは困ると、すかさず斉藤OMが交渉を始めたのですが、担当者に電話をしても英語がなかなか通じない。それでも根気よく免許の内容についてのやりとりを重ねるのですが、時間だけはどんどん過ぎて行って、いろいろお願いもしたかったけれど、時間切れアウトでした。結局、国際エキスプレスメールでライセンスの原本を受け取ったのが、出発の5日前の7月26日でした。

7月31日の朝、関東在住の私たちは、羽田から関空まで国内線で飛びました。関空からホーチミン市(HCMC)までは、JALとベトナム航空の共同運行便で所要時間5時間半の快適な飛行でした。そして翌8月1日、今度は一転して富国島まで小型飛行機に乗ります。機体の大きさもさる事ながら、その搭乗直前に、機内預け荷物のサイズが問題となり、係員と飛行機に載せる載せないの押し問答になりました。しかし、斉藤OMの「規定の寸法にまとめてあるのにアンテナを載せないなら、我々は搭乗しない!」と云う一言で、何とか載せてもらえる事になりました。HCMCから約1時間、シャム湾に浮かぶ富国島(AS-128)に着陸した時は、雨期の空が青空なっていました。

空港から車で20分程でKim Ling Hotelに着き、食事(朝食)もそそくさと早速アンテナの設営にかかりました。このホテルは、波打ち際からわずか数10mにあり、建物全体が高い椰子に囲まれておりました。また、JA側(北東)にはなだらかな山があって、見通しを妨げています。西側はシャム湾に面していて、障害はありません。これが結果的にEuへの大サービスの元となったようです。
日本では我々を待っている局もいるだろうとは思っておりましたが、設営に手間取り最初のオンエアは、予定より遅れて8月1日05:44U 21MHzSSBで3W6HM(筆者)のオペレーションでした。1st-everは我らが友人で大和クラブの重鎮JA1JQY松井OMでした。大変お待たせしたそうですが、59/59で富国島のペディションがスタートしました。
その後、JG1TPE、JA0QBY、JI1NIQ、JH6RDJ/1と懐かしいコールが続き、筆者と交代した3W6KS(斉藤OM)がJAのパイルアップを軽快にさばき始めました。

今回のライセンスでは、当初、指向性アンテナを申請してあったのですが、結果的にはダイポールしか免許にならず、仕方なしに他のアンテナを諦めました。許可された周波数も14〜50MHzまでで、希望した7MHzや10MHzは不許可でした。我々が運用を開始してからは、コンディションが安定せず、特に富国島に滞在していた4日間はWとのパスが極端に悪い状態が続きました。反面、Euに対しては好調な時間があって、深夜から早朝にかけては、寝る暇もないパイルアップに追われる事もありました。

 

翌8月2日も、コンディションが不安定で、14や21でのJAの信号も弱くて、ノイズに埋もれる事がありました。ですから、午前中はほとんど何も聞こえずにいるので、我々は睡眠をとったり、ホテルのおいしい朝食をゆっくり食べる時間が作れました。
この日の夕方から、西寄りの風が強まって、時折叩きつける様な雨が混じり始めました。

天候の変化は感じていましたが、何せこのホテルには電話もエアコンも、TVすらないので、気象の情報を得る事などできませんでした。

この頃、QSOするJA各局からは、日本全体が連日猛暑だとをお聞きしました。皆さんからは「ベトナムはさぞかし暑い事でしょう」とお見舞いをいただきましたが、実は富国島では皆さんに申し訳ない位に涼しくて、毎日25度前後の気温でした。

しかし、湿度はとても高いので、ログも地図も、まるで水に浸けた様によれてしまう程です。逆にこの湿気で寒い位でした。夜になると、ますます風雨は強くなって、外では我々が持ち込んだアンテナが大きく揺さぶられ続けていました。相変わらずコンディションは今一つパッとせず、夜中に14や21でEuがパイルしてくる位です。それにしてもWの信号が軒並み弱くて、時々思い出した様に呼んでくる局を拾うだけでした。

この日の夜、24MHzでQSOした草野編集長からも、「WebClusterにWへのサービスが足りないと書き込みがある」とのQSPをいただいたのですが、とにかく北米全体の信号が弱くて苦労しました。

ただ、コンディションが悪い中、我々が一瞬色めき立ったのは、0900GMT前後に初めて50.110で数局のJAの信号を聞くことが出来た時でした。我々は滞在中6mのビーコンを出し続けましたが、残念ながら最後までこのビーコンに応えてもらう事はできませんでした。



総重量60Kgを抱えてのVacation、傍目には何と映るやら

 

明けて8月3日は、朝から一日中風速20mを越える風雨が続き、我々もまさかの台風の直撃を受けている事に気が付きました。アルミ製のロータリダイポールがワイヤーの様にしなり、ついには3本用意したアンテナの内、1本が風に耐えきれず折れてしまいました。それでも翌4日の朝には、天候は回復に向かっているように見えました。元々この日午前は、島内観光へ出かけようと決めておりました。どのみち昼過ぎまではJAの信号すら聞くことができないので、台風の余波を受けてはいますが、予定通り出かける事にしました。富国島は、その島全体がカンボジア領にある様なもので、ベトナム領である事が不思議なくらいです。従って、国境に接する島の中央から北には外国人の立ち入りが制限されています。また、この島はヌックマムというベトナム料理には欠かせない醤油(魚醤)の産地で、南部の漁港は大変な活気でした。

港の市場には、取れたての魚や色とりどりの野菜、日用雑貨が山積されていて驚くほどの豊富さでした。とにかく日本のスーパーにあるものはほとんどがある、と思える程です。

また、シャム湾に面する西海岸は、延々数10kmにも及ぶ白砂の海岸で、さしずめ日本なら1大リゾートビーチになる所でしょう。椰子の木が点々とあり、その間の草地で水牛が草をはむ姿は、まさに日本では見られない光景でした。午後に観光から帰って、各バンドをワッチするも、ほとんど信号が聞こえず、たまに聞こえるJA各局とのんびりとラグチューをして過ごしました。明日はHCMCに戻る日なので、アンテナの撤収を打ち合わせてから、早めの夕食を摂る事にしました。この晩、18MHzのコンディションがとても良く、EuやWからのパイルアップが途切れる事なく続いて、筆者は連続5時間パドルを操作し続けました。パイルは収まる気配を見せないのですが、数時間後にはアンテナの撤収、そして島を離れなくてはならないので、断腸の思いでQRTの符号を打ちました。私たちの富国島での最後のQSOは、8月4日2111UのW1DIGでした。

コンディションに恵まれず、少し心残りではありましたが、無事に運用を終えた心地良さも感じて、我々は満足していました。アンテナを畳んで空港に向かう頃には、雨期の空に青空がのぞいていて、ちょうどこの島に到着した時の様に、視界を拡げてくれました。

ホテルで、何かと我々の世話を焼いてくれたHoa君の見送りを受けて、再び機上の人となり、HCMCへ向かいました。HCMCでは、ベトナムA.R.CのBacAiさんやHauさん、そしてHauさんの息子さんたちと楽しい数日間を過ごす事ができました。

特に、HCMCの高級ホテルKimDoホテルの最上階にある、クラブシャックからオンエアする許可をいただき、2日の間サービスする事ができて良い思い出になりました。

JF1OCQ しるす


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